一厘 ichirin

手仕事による和雑貨と、ぬくもりのライフスタイル

山中温泉。開発したのは、奈良大仏のスゴ腕・総監督

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 なんと おおきな へいじょうきょう。

 懐かしや、西暦710年。「なくようぐいすへいあんきょう」とともに、全国の小学生にもおなじみの奈良時代聖武天皇のもとで大仏建立にあたった行基という高僧が諸国行脚をしていたとき、加賀の山中であやしげな紫雲に導かれて山深く分け入ってみると、これまたあやしげな老人が現れ、病を治癒させる泉があるから掘ってみよと言って消えてしまう。

 生涯、全国で3つの橋、3つの溜め池、20近い温泉を掘り当てた、まるで凄腕の地域プロデューサーのごとき行基のこと、ここで、うさんくさげな、とは言わずに、みごと温泉を掘り当てる。行基にはかように優良情報が次々と集まってくる。ちなみに今回、情報をもたらしてくれたかの老人はじつは薬師如来の化身だった。

 これほどありがたい温泉だったにもかかわらず、平安の世はやがて乱れ、山野は荒れ、湯治場も廃れた。山は元の静けさを取り戻し誰もが湯治場のことを忘れてしまう。

 

 さて平安末期、能登の領主・長谷部信連が鷹狩りにこの地を訪れたとき、一羽の傷ついた白鷲が山かげの流れに佇んでいるのを見つけた。近づいてみると、どうやら足の傷を癒やしているようである。そのとき、どこからともなくうら若い娘が現れ、永らくお前を待っていた、と言う。

 このとき長谷部信連が、あやしげな娘、とか、領主に向かって「お前」とは何たる上から目線なやつ、等々、思ったかどうかは分からないが、とにかくこの娘は薬師如来の化身だと最初から身元を明かす。名乗ることもなくあやしげな老人の姿で現れた行基のときとはえらい待遇の違いだが、そんなことは置いといて、長谷部信連はちゃんとお告げどおりに温泉を再開発した。ちなみに、かの娘は白雲に乗って飛び去って行くという演出まで行っていることから、薬師如来さまも、今回はそうとう焦っていたようである。

 とにかく信連は薬師如来の言いつけどおりに、人々のために湯治場をリニューアル・オープンさせ、以来、北前船の船頭たちのお気に入りグルメ湯スポットとして繁栄し、かの松尾芭蕉も愛した温泉として今に至る。

 以上、山中温泉の由来でした。

>山中温泉観光協会

 

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(加賀山中温泉縁起)