一厘 ichirin

手仕事による和雑貨と、ぬくもりのライフスタイル

山中漆器のルーツ(前編)木地

山中における漆器生産のルーツをさかのぼってみよう。

それは安土桃山時代の天正年間(西暦1573-1592)にさかのぼる。太閤秀吉が全国統一を成し遂げていく、まさにそのころのこと。良材を求めて諸国山林伐採許可状を携えて山という山を渡り歩いていた木地師の一派が、越前から山伝いに山中温泉の上流に移住する。

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 (加賀山中温泉縁起)

 

 山中温泉は奈良時代、聖武天皇の庇護のもと奈良大仏の建造を指揮したことで知られる行基が開いたとされる歴史ある湯治場。日本海側の物流を担う北前船の拠点として加賀が栄え、気前のいい海の男たちのことである、大挙して加賀の奥座敷である山中温泉で大いに散財したのであろう。行く先々の港で待つ女たちに配るためだったのか・・彼らは土産物として木地師が作った器を喜んで買っていき、山中は木地の産地としての名を高めていく。

さて、ここからの話がおもしろい。

漆器作りの工程は大きく分けて、木地師による木地作り、塗師(ぬし)による塗り、蒔絵師による加飾の三工程。これを産地問屋がプロデューサーとなって分業体制がとられる。ただ全行程をひとつの産地でまかなえるのは、まだ限られた場所だけであった。塗りの技術などは産地内のトップシークレットであり、門外不出。監督官庁である藩もノウハウの流出に目をとがらせ、禁を破った者には打ち首という厳罰を課すところもめずらしくなかった。

高い技術の木地作りで発展してきた山中が、次のステップとして商品価値を劇的に高める塗りや蒔絵の技術を渇望していたのは想像にかたくない。この技術を山中が手に入れるためには、江戸時代まで待たねばならなかった。

 

 

時は天保。水野忠邦の幕政改革を開始するも、折り悪く天保の大飢饉を被った農村の荒廃は凄まじいものであった。大坂町奉行所の役人である大塩平八郎が貧民救済を唱えて蜂起し、越後柏崎では生田万(いくたよろず)がそれに続く。モリソン号事件をはじめ、異国からのプレッシャーも高まりつつあり、200年余にわたってつづいた江戸の平和にもかすかな影がさしはじめていた。不穏な空気を振り払うかのように民衆のあいだでお伊勢参りが爆発的ブームとなり、「ええじゃないか」の熱狂的乱舞とともに世直しの機運が高まっていく。

山中からはるか東方の会津。いても立ってもいられなかったのだろうか。25歳になったひとりの若者がお伊勢参りの旅に出たのは、まさにそんな時代だった。

若者の名前は由蔵。彼が山中漆器における塗り技術の祖「会津屋由蔵」として後世にまで語り継がれることになるとは、そのときはまだ誰も想像しなかった。

(つづく)

 

 

【参考】『山中漆器』オフィシャルサイト(山中漆器連合共同組合)

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