一厘 ichirin

手仕事による和雑貨と、ぬくもりのライフスタイル

山中漆器のルーツ(後編)蒔絵の技術を獲得した、漆器商の健脚

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石川県山中温泉町を見おろすように立つ医王寺。現在はバイパスが目の前をとおっている。寺門の前に立派な石碑が立っている。そこに刻まれた文字は「会津屋由蔵」と読める。

 時は江戸時代。天保の改革のただ中にさかのぼる。

年季が明けひとりだちしたばかりの若き蒔絵師がお伊勢参りを思いたったのは二五歳のときだった。当時は厄払いの意味もあったが、お伊勢参りは社会的なブームでもあった。親友の塗師とふたり連れだっての出立は心はずむものであったに違いない。しかしこれが女手ひとつで育ててくれた母との永遠の別れとなると知っていれば、孝心厚いこの蒔絵師が旅だつことはなかっただろう。そして故郷からはるか数百キロ離れた寺の石碑に、その名が刻まれることも。

 伊勢参りを成就した由蔵と塗師のふたりはすぐには帰路につかなかった。京都への物見遊山を思い立つ。懐はさびしかったが、塗師の職能を生かした仏壇のメンテナンスのアルバイトをやりながら旅をするというアイデアで、京都行きを実現させる。

思いのほかこのアルバイトが好調だったので、信仰心が厚く大型の仏壇を持つ家の多い北陸路を通っていくことにした。故郷で待つ母にいくばくかの金を持って帰りたいという気持ちもあったかもしれない。

近江八景を経て、行く先々の寺に参拝し、現在の福井市の北にある丸岡から竹田川に沿って山道に入り、大内峠を経て加賀との国境を越える。ここから川沿いに少し下った我谷という集落の炭焼屋で二人は仏壇メンテのバイトをした。ちょうどそのとき8km下流にある山中温泉から漆器商が炭を注文しにやって来た。

炭焼き屋は、言葉がよく通じない二人のことを笑いながら話した。全国あちこちを商いで歩いていたので会津語も解した漆器商は二人に話しかけてみた。二人とも塗師かと思っていたら、ひとりは蒔絵師ということが分かった。山中温泉に塗師はいたが蒔絵の技術はない。漆器商は千載一遇のチャンスが巡ってきたと心踊り、何とか若き蒔絵師を家に呼び寄せることはできないかと考えた。

蒔絵の技法を他国にもたらせば死罪。全国を商いして歩いていた漆器商は、そのぐらいのことは知っていたはずだ。彼は山中温泉で宿も経営していたので、とりあえず二人に温泉を勧め、その際は自分の宿に必ず立ち寄ってくれと約束し、この日は辞した。一方、二人は、けたはずれに大きい仏壇のメンテに日暮れまでかかってしまい、温泉には行けず、この晩は炭焼き屋の家に泊めてもらうことになった。家の娘がよく世話をしてくれた。

翌日、天下の名湯であり由緒ある湯治場の山中温泉に入ったあと、二人は約束どおり漆器商の営む宿に立ち寄った。あいにく主人は留守だった。蒔絵師に何とか山中にとどまってもらうための方策を講じるために仲間のところに出向いていたのだ。二人の身元引き受けの同意をもらい宿にもどってみると、由蔵たちはすでに那谷寺(なたでら)に向けて発ったというではないか。

黒谷橋から先は山道である。現在は全長1.5kmの四十九院トンネルが通じているが、当時は行程一里(4km)の厳しい峠越え。山中温泉は俳聖・松尾芭蕉が同行の曾良と別れた場所でもある。曾良は西へ、芭蕉は東へと歩みを向けた。芭蕉が選んだのが黒谷橋から那谷寺に向かうルートで、由蔵らもその足跡をたどろうとしたのかもしれない。

その道を、漆器商は無我も夢中で走りに走った。もしここで彼があきらめていたら山中漆器の歴史は変わっていたはずだ。彼もそのことを分かっていたのかもしれない。言い遅れたが、今、九十九折りの山道を息も絶え絶えに走るこの漆器商の名は越前屋六右エ門。会津屋由蔵とならび、山中漆器における歴史的功労者として名を残している。

由蔵は、ここ山中で妻をめとり、会津屋の屋号で蒔絵技術をもたらした。それは医王寺の石碑が顕彰しているとおりである。そこに記されてはいないが、由蔵の妻となったのは、あの炭焼き屋の娘であった。

 

 

医王寺の山門

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石碑の横にある案内板

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医王寺から見た山中温泉。中央の緑の屋根が現在の共同浴場である。

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あやとり橋。これより700mほど下ったところに、芭蕉や由蔵、そして越前屋六右衛門が走った黒谷橋がある。

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